ピアノ調律師 インタビュー vol.1

  2008年3月 vol.1
Clear Sound Tsuchida (神奈川県)
土田 宏 氏
20年以上たつと、あんなに小さかったお嬢さんがお母さんになって、次の代までお付き合いできる。こんな仕事はそうないでしょう。


インタビュアー : ピアノ調律.net 新井





いまの音作りは、ギター、シンセでよく遊んだことと、
職場の先輩の影響が大きい




【新井】土田さんの持ち味は、パワフルでクリアーなサウンド。また、音の立ち上がりや豊かな響きも意識されているようですね。どうして、こういった自分独特の音作りにこだわりをもつようになったのでしょうか?


いちばん大きなきっかけといえるは、私の最初の職場にいた先輩の影響かもしれません。その先輩1人だけは、すごく個性的な音をつくるんです。当時は、明らかに違うということだけしかわかりませんでしたが、自分も将来はっきりと個性を持った調律師になりたいと、そう思うようになったんです。

もちろん、こう思うにいたるには、幼少の頃からのいろいろな経験があります。

私には7歳上の兄がおります。わたしが小1のとき兄が中2ですから、影響は大きかったとおもいます。ちょうど時代はベンチャーズとビートルズ。小学生の頃は兄のドラムを叩く毎日。中学はサッカーとギター、高校はバレーボールとギターに明け暮れる毎日でした。

クラスでもフォークグループを作っては、文化祭等で盛り上がっていました。田舎だったので、教えてくれる人もなく、もっぱらレコードコピー。高校生の頃にはレコードに合わせてギターをチューニングするのですが、曲によってピッチ(音の高さの基準)が微妙に違うことも気になるようになり、その都度チューニング。それが、いい耳の訓練になったのでしょう。グループ内でも全ギターのチューニング担当でした。そんなことも、調律師を志すきっかけになったと思います。

20代には、ソウルミュージックやフュージョンを、主に聴いていました。たいして弾けもしないのに、フェンダーローズピアノやシンセサイザーを持ち、楽しむ毎日。シンセは音の成り立ちや構造そのものと向き合ういい道具でした。今と違ってアナログシンセの時代です。別の音にするときはいちいち色々なつまみを調整しなければなりません、音を分析して聴くいい訓練になったと思います。

ローズピアノは、今やビンテージの類になりましたが、今のデジタルピアノ、エレピの代表的な音です。金属棒をハンマーで叩きそれをエレキギターのようにピックアップで拾い増幅するというモノで、音源はアコースティックです。ですから、強い打鍵では音が少しひずんだりとそれがまたいい味であり特徴でもありました。難点はとても重いこと。それに耐えかね、5年ほどで電子ピアノに買い換えてしまいました。

当時の電子ピアノはクリアーな音は出るのですが、どんなに強打してもあくまでクリアー。それがなんとつまらない事か!「きれいなだけじゃだめなんだー」と痛感、弾き手の思いや感情を表現するには、音の強弱や美しい音だけでなく色々な表情、ときには歪んだ音も必要だと学びました。

30代は、国内屈指のジャズオルガンプレイヤー、佐々木昭雄さんのライブを毎月聴きに行ってました。その店にはハモンドB3(ジミースミスのキャットで有名かな?)というジャズオルガンと専用のレスリースピーカーが常設。そのサウンドを堪能できました。佐々木さんのすごい演奏、そして圧倒的に骨太な音とドライブ感は、決して美しい音の類ではないと思うのですが、それを一つの楽器として成立させてしまう西洋人の感性。日本人にはぜったい作れないだろうなーと、いつも感じていました。





ヤマハの調律実習《コンサートコース》で、
トップ技術者から得たもの




40代始め、ヤマハの調律講習である《グランドコース》に参加しました。それも、最終となる《コンサートコース》です。グランドコースには、基本コース、応用コース、そして、この《コンサートコース》の3つの課程があります。前の2コースは30代のときにすでに終えていて、最終ということで、このコンサートコースに臨んだのです。1ヶ月間、フルコンサートグランドの整調(アクションや鍵盤部分を調整し、タッチを作っていく作業)の精度を磨き、新品のハンマーに変えて整音(ハンマーを整形したり針を刺したりして、発音や音色を作っていく作業)をやったりします。もちろん、調律の精度も、とことん追求しました。自分としてはこの1ヶ月でなんとしても一皮むけたかった。今までのただの延長線上にはしたくなかった。そういう思いがありましたね。

そして、そのとき、当時のヤマハの技術のトップであった竹原さんに、さまざまな示唆を与えていただきました。チューニングハンマーの操作からやり直しをし、新しい音創りに挑戦を始めたのでした。毎回の調律で、ユニゾン(複弦を同じ高さに合わせる)のアプローチを微妙に変えてみました。しかしそんなに簡単にできるはずもありません。まるで、出口の見えないトンネルに入った心境でした。音は形がないだけに、いったん迷いが生じると非常に厄介で、つらいものです。中には、調律できなくなる人もいる・・・

さて、その竹原さんがある時「いい音はイーだ!」と。それは私にとって衝撃でした。それまで自分のイメージは「オー」だったのです。これらは、ユニゾンを母音のイメージにたとえた表現なのです。それからというもの、「イー」をイメージしたユニゾン作りへの挑戦が始まりました。それまで20年もやってきたことを変えるのは本当に大変でした。研修も終盤、やっとトンネルの出口が見えた思いでした。

オクターブの音の取り方も改良し、自分の新しい形が何とかできたという感じでした。とは言っても、安定してできるようになるのに、その後約3ヶ月かかりました。その間は、1台のピアノを調律するのに、3時間もかかるありさまでした。 

しかし、そのことで、以前に比べ立ち上がりがよく、クリアーでパワフルな音になりました。低音の巻き線から高音まで音のつながりもスムースになり、高音の鳴り、全体の響きも豊かになったと思います。

調律は、ユニゾンに始まりユニゾンに返るといいます。同じ高さに合わせるというと、誰がやっても同じと思うかもしれませんが、違います。柔らかい音、硬い音、こもった音、抜けのいい音、明るい音、暗い音、立ち上がりのいい音、延びのいい音、ほんと十人十色です。とはいっても、皆が皆、強烈な個性というわけではありませんが。

今になって考えてみると、こういった過去の楽器や音楽の経験が、今の自分にかなり影響しているなと感じます。これからも常に研究、試行錯誤していきたいですね。






バンカラ気質の友人達や後に芸能人になった友人との出会い。そして、再会。



● むかし話がいろいろでたところで、もう少しそれについてお聞きします。ピアノ調律技術者養成所のご出身ですが、そこでの勉強や生活はどのようなものでしたか?


河合楽器ピアノ調律技術者養成所は、浜松の西、弁天島駅近くの浜名湖を望む風光明媚な場所にありました。当時、すでにかなり古い建物で、むかしの木造小学校のような感じでした。

教室、実習室、調律ボックス、食堂、事務室、寮などがいっしょにありました。そこに、約50人の調律師のたまごたちが、半日は調律、残りは整調や修理の実習などをやる。もちろん、全体で学科を受講することもありました。金曜の午後は、よくソフトボール大会をやったものです。


  S.50年
四班メンバー


当時は全員男子で、まだバンカラ気質のあった時代でした。全国から集まっていたので各地方の気質の違いはおもしろかったです。目立っていたのは大阪、兵庫の関西勢、広島、東京周辺の関東勢。北陸、東北勢はおとなしかったなぁ。

関東にはTOMさんこと《ブラザートム》(バブルガムブラザーズ)がいました。当時から人気者だった菊地くんとトムさんの二人のコンビがこれまた絶品。何か企画しては、いつも爆笑の渦を提供してくれました。 TOMさんは、ニックネームを付けるのが得意で、観察力があるんでしょうねぇ。ちなみに私は「土田職員」。生徒には、あまり見えなかったみたいです。(笑)

また、当時サンスイ・ポピュラージャンボリーというアマチュアのコンテストがあり、TOMさんのリードボーカル中心のグループがなんと全国優勝。静岡のラジオ局で帯番組を持つまでになったのです。プロからの誘いもあったそうですが、当時は結局断念したようです。

同じ班だった沢井さんは広島出身、当時デビュー直前の《愛奴(あいど)》というグループ(浜田省吾 在籍)の見本版のレコードを持っていて、よく聞かせてもらいました。愛奴のメンバー達とは親友だったようです。まだ初々しい浜省の歌声が印象的でした。数年後、沢井さんと思わぬところで再会することになりますが・・・

 
S.50 楽しい遠足!

仲間たちとの思い出話はつきませんが、もちろん、ちゃんと勉強もしていましたよ。(笑)

調律は、中音部のユニゾン(同じ音に合わせる)に始まり、割り振り(音階を作る)、オクターブ(中心から上下に広げていく)、さらにそれぞれのユニゾンという順番で学んでいきます。夏くらいまでは、部分的な訓練も、夏以降は1台仕上げ。時間を短縮していく、あるいは、大きく下がった状態を調律する等、日に日に大変になります。

最初の壁は、割り振りだったでしょうか。最初のAの音(ラの音)から広げるのですが、4度(ド~ファ)の唸り、5度(ド~ソ)の唸りを耳に付くようにするんです。でも、これが難しくて、いろんな倍音が聞こえてきます。ピアノによっても、聞きやすい聞きずらいがあったりと、皆苦労していました。

まあ、ほとんどの人が、卒業近くにはいい調律してましたけどもね。佐々木さんという方がいて、いつも成績優秀だったのが、印象に残ってます。じつは、彼にも数年後、思わぬ所で再会するんですが・・・

再会と言えば、東京のあるライブハウスで、例のTOMさんとほんと偶然に再会したのです。わたしが、アマチュアのブルースバンドでたまたま出演しているさなか、ふらっと現れたのでした。養成所以来ですので、TOMさんが私のことを完全に思い出すまで少し時間がかかりました。ただ、メールのやり取りが出来るようにしたので、これからはたまにTOMさんやほかの同期生にも会えると思います。とっても楽しみです。


 
[レッドロック ブルースバンド] キーボード担当でメンバーに参加

 
 





【続く:1/2】

 


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